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二祖真教上人について

(1)九州で一遍上人の弟子になる

二祖真教上人の生涯①_御影堂

 『遊行縁起』第一には、「同(建治)三年九国を修行し給けるとき、他阿弥陀仏はじめて隨逐(ずいちく)したまふ」と述べ、真教上人が一遍上人に出会い、入門したのは建治3年(1277)九州であるとしています。

 遊行二祖他阿弥陀仏真教(たあみだぶつしんきょう)上人は、このとき師弟の契りを結んでから、一遍上人が入滅するまでの13年間常に隨逐し、その教えを受けるとともに一遍上人の遊行・教化を助けています。一遍上人の弟子たちのなかでも最も重んじられた人であったでしょう。

また、この絵巻(一遍上人の御影堂に参詣する真教上人)の御影堂が今日の大檀林(だいだんりん)真光寺のもとになったのでしょう。

『一遍上人年譜略』によれば、建立者は時宗二祖他阿真教上人で、伏見天皇に上奏して真光寺の勅額を賜ったと伝えられています。

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遊行をはじめる

第5巻2段 第5巻3段

 一遍上人が入滅すると真教上人たちは、「一遍上人はお亡くなりになってしまいました。我々もすみやかに念仏して臨終しょう」(『遊行縁起』第五)と摂津・播磨両国境にある丹生山(たんじょうざん)に分け入りました。山中の朽ち落ちそうなお堂(極楽浄土寺)で念仏しながら死を待っていました。

 そのとき、山麓の粟河の領主が念仏札を受けたいといって尋ねてきました。この粟河の領主の女房は、一遍上人から念仏札を受けた最後の人です。

 真教上人は、「我らは亡き聖の後を追い、臨終しようとしている身です。したがって、念仏札を与えることはできません」と断りました。

 ところが領主は、「このように縁を結びたいと願っている者がいるのに、どうして念仏札を与えてくれないのか。是非与えてほしい」と。と言って承知しません。やむなく真教上人は一遍上人から受けた念仏札を領主に与えました。

 真教上人は、「念仏札を渡したからには我々が後を追って死ぬことに意味はない。一遍上人素晴らしい教えも耳の底に残っている。この教えを人々に説いて行こう」(『遊行縁起』第五)と臨終を思いとどまり、時衆は真教上人を知識として山を下り、賦算(ふさん:お札くばり)の旅に出ることになりました。

 粟河の領主の勧めによって、時衆におされ知識となり教団の再編成を試みた真教上人は、その法を嗣(つ)いで教団を率いて、さらに16年の遊行を続けたのです。


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時衆教団を確立

 一遍上人の教えを受け継ぎ時衆教団を確立、大成させたのは真教上人の力です。門下から大上人(おおじょうにん)または大聖(おおひじり)と呼ばれていました。

真教上人の生まれは京とも豊後(大分県)ともいわれるが、はっきりとはしません。在俗時代のことについて、くわしく語らなかったためでしょう。

 はじめは浄土宗鎮西派(ちんぜいは)の流れを汲み、一遍上人と出会う前は豊後の大友氏の帰依を受け、府中(大分)に住していたといわれています。
年齢は一遍上人より二歳上でした。

 真教上人は、41歳の時、一遍上人に出会い、教えを受け入門したときの様子を後になって『奉納縁起記』に記しています。

 建治3年(1277年)秋の比、九州化導のとき、

『予始めて温顔を拝し奉り、草庵に止宿して一夜閑談せしめ、五更(ごこう・夜明け方)に及ぶまで欣求(ごんぐ)浄土の法談あり。~中略~年来所居の栖(すみか)を捨てゝ一所不住の身となり、堅く師弟の契約を成し、多年隨逐したてまつる。誠に謝し難きは恩徳なり』

この『奉納縁起記』(嘉元4年・1306)は、真教上人が一遍上人一代の絵伝十巻を熊野本宮に奉納したときの「願文」です。

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遊行の足跡①

第5巻3段

 他阿真教上人の嗣法(しほう)と遊行については、『遊行上人縁起絵』十巻のうち、後半六巻が伝えている。『遊行上人縁起絵』は『一遍聖絵』に比べると年月日などが不正確です。
また、記事の順序なども違っている箇所があります。そのため、真教上人の遊行の行程を正確に知ることは困難です。

 正応3年(1290)夏、真教上人の一行は越前の国府(福井県越前市京町)へ入っています。
惣社に七日参籠した後、佐々生(さそう)(福井県丹生郡朝日町)、瓜生(うりゅう)(福井県越前市瓜生町)などを遊行し、冬には再び越前の惣社に戻って歳末別時念仏会を厳修し、七日間「暁ごとに水を浴、一食(いちじき)定斎にて、在家、出家をいはず、常座合掌して一向称名の行間断なく、番帳(ばんちょう)定めて、時香一二寸を過ごさず、面々に臨終の儀式」(『遊行上人縁起絵』第五)を考えて修行しました。

 翌4年8月、加賀国今湊(石川県白山市)、藤塚(同)、宮越(石川県金沢市)を賦算(ふさん・お札くばり)した真教上人は、翌年秋の頃、人々の召請(しょうせい)によって再び惣社に参詣したが、ときに国中の人たちから帰依を受けました。
これに対して平泉寺の法師たちは、越前国から真教上人たちを追い出そうと企てたので、真教上人たちは衆徒の迫害を逃れて加賀国(石川県)に入り、同6年には越後国(新潟県)、続いて永仁5年(1297)6月には小山(栃木県小山市)・新善光寺の如来堂に逗留したといわれています。
永仁2年(1294)から4年までの遊行は明らかではありませんが、越後国をまわっていたと考えられます。


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遊行の足跡②

第7巻1段 第7巻5段A

 北陸地方は、一遍上人が善光寺参詣のために通ったことがあったかもしれないが、教化が十分であったとは思われません。
そこで真教上人は、この地方を重点的に遊行したのではないかと考えられます。

  永仁6年(1298)、武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)で『他阿弥陀仏同行用心大綱』を書いて時衆の心得を示し、その後、越中国放生津(ほうじょうづ)(富山県射水市)、越後国池(新潟県上越市)などを遊行しました。
さらに、真教上人は信濃(しなの)、甲斐(かい)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、武蔵、相模など関東各地の教化につとめています。

 すなわち、越後国府(新潟県上越市)より関山(新潟県妙高市)を越え信濃国へ行き、善光寺(長野市)に参詣しました。それから甲斐国一条(山梨県甲府市)、中河(山梨県笛吹市)を経て、御坂(みさか)(山梨県笛吹市)から河口(山梨県南都留郡富士河口湖町)を遊行しています。


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遊行のお砂持ち

第8巻4段

 越前国に入った真教上人は、角鹿笥飯(つるがけひ:敦賀気比)大神宮(福井県敦賀市)に参詣した際に、参道にあった沼のぬかるみを自ら「もっこ」を担いで浜の砂を運び、時衆とともに参道を直したといわれています。

これを「遊行の御砂持(おすなもち)」と呼び、今日でも、新しく遊行上人になるとこの行事が行われます。

 『縁起絵』第八には、

 『社司・神宮等大に悦(よろこび)て、先縄を引て、道のとほりを定む。広さ二丈あまり、遠さ三丁余也。さても其あたりはおびたゞしき沼なりければ、すべてうむべき土のたよりもなかりけるを、聖、社頭より四五町許(ばかり)ゆきて、浜の沙を運はじめ給程に、時衆の僧尼、われもわれもとあらそひける。其外も諸国帰依の人、近隣結縁(けちえん)の輩(やから)、貴賎を論ぜず道俗をいはず、神官、社僧、遊君、遊女にいたるまで、七日夜の間は肩をきしり、踵(きびす)をつげり。海浜すこぶる人倫を成し、道路ますます市のごとし。』

と記されています。

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